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イタリアのユーモアとオペラ美学―ロッシーニ 喜歌劇『イタリアのトルコ人』の魅力

イタリアのユーモアとオペラ美学―ロッシーニ 喜歌劇『イタリアのトルコ人』の魅力

イタリアに息づく、日常の何気ない瞬間を楽しむというライフスタイルから、日々を少しハッピーに彩るコトやモノをご紹介している連載のVol.4では、オペラ『イタリアのトルコ人(Il Turco in Italia)』から、作品の魅力と、日常そのものが芸術へと昇華するイタリア独自のオペラ文化を考察します。 舞台の中で始まるもう一つのオペラ 『イタリアのトルコ人(Il Turco in Italia)』は、 若きジョアキーノ・ロッシーニが22歳で書いたオペラ・ブッファ(喜歌劇)で、 初演時には評価は高くなかったようですが、現代では「隠れた名作」として高く評価されています。 物語の構造、人物の心理描写、そしてロッシーニらしいアンサンブルの妙が光り、オペラ・ブッファが進化する過程で投げかけられた変化球の作品としても一目置かれている作品です。   (c)Koji Iida/New National Theatre, Tokyo   この作品のもう一つの魅力は、劇中に劇がある「メタオペラ」構造です。登場人物の一人、詩人プロスドーチモが 「喜劇を書くための題材が見つからない」と嘆きながら登場し、 目の前で起こる、人間模様を“作品の素材”として観察し始めます。 観客はこの詩人と同じ視点で物語を眺めることになり、 オペラ自体が「オペラの作られ方」を描く構造になっています。   (c)Koji Iida/New National Theatre, Tokyo     庶民のドラマが主役になるとき――オペラ・ブッファの魅力 物語はナポリ近郊の海辺。主人公の気まぐれで奔放なフィオリッラは、どこか頼りないが憎めない夫ジェローニオとの変わり映えしない日々に少し疲れている女性。 そんな彼女の前に、ナポリの港へ華やかに現れるのが、どこか危うい魅力を放つトルコの王子セリム。二人がふと視線を交わした瞬間から、夫のジェローニオ、セリムへの想いを捨てきれない元恋人のザイダ、さらにフィオリッラを慕うナルチーゾまで巻き込み、恋の糸はゆっくり、そして見事に絡まり始める。...
何十年経っても、格好いい。ディーター・ラムスが教えてくれる「良いデザイン」のこと。

何十年経っても、格好いい。ディーター・ラムスが教えてくれる「良いデザイン」のこと。

ドイツの家電メーカー〈ブラウン〉の名作を生み出した、ディーター・ラムス。彼のデザイン哲学に触れる日本初の公式巡回展が、東京・上野毛で開催される。   昔のブラウンのラジオやオーディオを見て、「これ、今でも欲しいな」と思ったことはないだろうか。無駄のないフォルムに、整然と並んだボタン。何十年も前の製品なのに、ちっとも古く見えない。むしろ、今のものより新鮮に感じることさえある。そんなプロダクトを数多く生み出したのが、ドイツのインダストリアルデザイナー、ディーター・ラムスだ。 彼が掲げたのは、「Less, but Better(より少なく、しかしより良く)」というデザイン哲学。 ただシンプルにすればいい、という話ではない。使う人のことを考え、必要な機能を見極め、余計なものを削ぎ落とす。その先に生まれる美しさこそ、ラムスが追い求めたものだった。   そんな彼の仕事をじっくり見られる公式巡回展が、11月17日から多摩美術大学の新ギャラリー〈Sala Blu〉で開催される。しかも日本初。 会場には、ブラウンの名作プロダクトをはじめ、スケッチや図面、プロトタイプなどが集結。完成されたデザインの美しさはもちろん、ひとつのアイデアが製品になるまでの思考のプロセスを辿ることができる。   travel 1000 Model for a miniaturised world receiver 1978 Photo: Andreas Kugel © rams foundation   SK 4 – Mono radio-phono combination with...
100年経っても、未来の話。星新一をもう一度読んでみる。

100年経っても、未来の話。星新一をもう一度読んでみる。

たった数ページなのに、読み終わったあと、世界がちょっと違って見える。星新一のショートショートには、そんな不思議なところがある。 『ボッコちゃん』『おーい でてこーい』『きまぐれロボット』。タイトルを見て「あ、学校で読んだ」と思った人もいるかもしれない。そんな人にこそ、大人になった今、もう一度読んでみてほしい。 2026年は、星新一の生誕100年。それを記念して、新潮文庫から『きまぐれカプセル』が刊行された。新聞や雑誌、企業のPR誌や会報などに書いた文章から、これまで書籍や文庫に収録されていなかったエッセイ91編をセレクト。さらにショートショート3編を加えた一冊だ。 ところで、星新一ってどんな人? 1926年、東京生まれ。本名は星親一。 東京大学農学部農芸化学科を卒業し、父が創業した製薬会社で一時社長を務めた。つまり最初から文学青年として作家を目指していた人、というわけではない。 そして1950年代、空飛ぶ円盤研究会に入会する。なんとも星新一らしい入口だ。そこからSFの世界と出会い、1957年には日本初期のSF同人誌「宇宙塵」の創刊に参加。作品が江戸川乱歩の目に留まり、作家への道が開けていく。 後に星新一の代名詞となったのが、「ショートショート」だった。短い。文章もシンプル。登場人物の細かなプロフィールや、情緒的な風景描写もほとんどない。その代わりに出てくるのは、ロボット、宇宙人、薬、会社、広告、便利な機械。 未来の道具を次々と登場させながら、星新一が観察していたのは、どうやら未来そのものではなく、それを手にした人間のほうだった。欲張ったり、怠けたり、騙したり、便利さを追い求めすぎたり。未来になっても、人間は案外変わらない。そこが面白い。 1983年には、自ら目標に掲げていたショートショート1001編を達成。『ボッコちゃん』『ようこそ地球さん』『悪魔のいる天国』『妄想銀行』など、今も読み継がれる作品を残した。   未来を書いたのに、古くならない。 星新一を今読むと、ときどきドキッとする。 便利になりすぎた社会。人間の代わりに働く機械。情報に振り回される人々。効率を追いかけた結果、妙なところへ辿り着いてしまう世界。もちろん、スマートフォンも生成AIもない時代に書かれた物語だ。なのに、「これ、今の話じゃない?」と思ってしまう。 未来を正確に予言したから、というだけではない。テクノロジーが変わっても、その前で右往左往する人間の欲望や滑稽さは、それほど変わらない。星新一はそこだけを、まるで実験室で不純物を取り除くように抽出して物語にした。農芸化学を学んだ人だから、と言ったら少し出来すぎだろうか。 余計なものがない。だから古びない。ショートショートという小さな器の中に、人間という生き物の妙な性質が、標本みたいにきれいに収まっている。 100年目に見つかった、知らない星新一。 そんな星新一の生誕100年に刊行されたのが、『きまぐれカプセル』。面白いのは、単なるベスト作品集ではないところだ。 空飛ぶ円盤に熱中した理由。5000年後へ送るタイムカプセルに何を入れるか。江戸川乱歩や小松左京、和田誠との交流。幼少期から晩年まで、本人が自分について書いた文章を時系列で読むことができる。つまりこれは、ちょっと変わった「星新一の自伝」でもある。 さらに気になるのが、今回収録された3編のショートショート。なかでも「聖地」は、生誕100年となる2026年、遺品のなかから下書きの状態で発見された未発表作だ。次女の星マリナさんによれば、比較的大きな字で書かれていることから、かなり初期の作品と考えられるという。 そして、そこに登場するのが、「なんでもできるけれど、電気代がかかる」存在。AIの消費電力が話題になる2026年にこれが出てくる。出来すぎた話みたいだけれど、本当の話だ。   表紙を飾るのは、盟友・真鍋博 装画は、星作品のイラストを初期から数多く手がけた真鍋博(1932〜2000)が担当した。『ボッコちゃん』『ようこそ地球さん』など、初期から数多くの星作品の装画を手がけた盟友だ。 シャープな線、機械、都市、未来。少しユーモラスで、少し不穏。星新一の乾いた文章と真鍋博のグラフィックは、いま見ても驚くほど相性がいい。新刊なのに、どこか古いSF文庫を古本屋で見つけたような感じがするのは、そのせいかもしれない。本というのは文章だけでできているわけじゃない。装丁も含めて記憶に残る。そんなことまで思わせてくれる一冊だ。 100年前に生まれた人が、半世紀以上前に考えた未来。そこに、AIと暮らす2026年の僕たちがいる。 数ページ読んだあと、スマートフォンやAIや、便利すぎる毎日の景色が、ほんの少し違って見えるかもしれない。 _______________ INFORMATION 『きまぐれカプセル』星新一 著新潮文庫2026年8月28日発売エッセイ91編+ショートショート3編収録URL: https://www.shinchosha.co.jp/book/109855/
『いつでもいま – ガラスに映す光』柿本ケンサク写真展、代官山ヒルサイドで開催

『いつでもいま – ガラスに映す光』柿本ケンサク写真展、代官山ヒルサイドで開催

写真家・映像作家の柿本ケンサクが、ガラス作家・三嶋りつ惠の作品を「光を描くためのレンズ」として撮影した新作「Hikari」シリーズを発表する。 『いつでもいま – ガラスに映す光』柿本ケンサク写真展は、9月23日から10月4日まで、代官山ヒルサイドテラス・ヒルサイドフォーラムで開催。柿本氏にとって代官山は、写真家としての活動をスタートさせた場所でもある。2016年の『TRANSLATOR』、2021年の『TRANSFORMATION』に続き、今回で3度目の展示となる。 今回、柿本氏が対峙するのは「ガラス」だ。ヴェネツィアと京都を往復しながら制作を続けるガラス作家・三嶋りつ惠。ムラーノ島の職人技を受け継ぎながら、無色透明の中に光の輪郭だけを描き出す、あの独特の存在感を持つ作品群である。 柿本氏は三嶋氏のガラス10点を、レンズのように用いた。数ミリ単位でガラスの位置をずらし、角度を変え、通過する光を捕まえる。目の前の風景を「写す」のではなく、光そのもの、そして偶然と対話しながらシャッターを切る。だから写真には、その日の空気、季節の匂い、撮影者の身体の揺れまでもが、痕跡として刻み込まれることになる。 写真は光を固定する。ガラスは光を揺らす。 新作『Hikari』シリーズ ©Kensaku Kakimoto ©Kensaku Kakimoto ©Kensaku Kakimoto ガラスによって屈折し、揺らぎ、輪郭を変える光。そこには、風景そのものだけでなく、その場に流れる時間や季節の空気、身体の揺れ、ガラスの個体差までが痕跡として残る。 「固定」と「流動」、「定着」と「融解」。 異なる性質を持つ写真とガラスを重ねることで、柿本氏がこれまで向き合ってきた「時間」と「記憶」が、より感覚的な像として立ち上がる。 透明なガラスは、何もないように見えて、光を受け止めることで初めてその存在をあらわにする。そのガラスを通過した光を、今度は写真が固定する。揺らぐ光が一瞬だけ像になり、その像がまた見る人の記憶のなかで揺らぎ始める。タイトルの『いつでもいま』が示すのは、そんな一瞬と永続のあいだなのかもしれない。 三嶋りつ惠氏によるガラスレンズ作品「キンギョレンズ」 会場では「Hikari」シリーズの写真作品に加え、三嶋氏による「タマレンズ」「キンギョレンズ」などのガラスレンズ作品も展示。 会期中の10月3日には、柿本氏と三嶋氏によるトークイベントも予定されている。写真を通して光の一瞬を捉える柿本氏と、透明なガラスを通して光をかたちにしてきた三嶋氏。二人が語る「光」と「時間」は、聞き逃せない。 さらに南青山のLUMIX BASE TOKYOでは、同時期に連動展『いつでもいま』を開催。LUMIX L10で撮影された、ヒルサイドフォーラムとはまた異なる柿本氏の眼差しに出会える。ハシゴして訪れる価値は、十分にある。 _______________ INFORMATION 『いつでもいま – ガラスに映す光』柿本ケンサク写真展 会期:2026年9月23日(水・祝)- 10月4日(日)12:00 - 19:00 ※最終日11:00...
名画は、見るほどに面白くなる。500点の傑作を読み解く『完全解読 世界の美術』

名画は、見るほどに面白くなる。500点の傑作を読み解く『完全解読 世界の美術』

美術館で名画を前にして、さて、どこを見ればいいのだろう。 色なのか、構図なのか。描かれた人物の表情なのか。もちろん、ただ眺めるだけでも絵は楽しいのだが、その一枚に隠された意味や時代背景を少し知るだけで、それまで見えていなかったものが、ふっと浮かび上がってくることがある。 そんな「見るための目」を育ててくれる一冊が登場した。 英国の出版社DK社による『完全解読 世界の美術』。洞窟壁画からルネサンス、印象派、北斎、そして現代のグラフィティ・アートまで。古今東西500点以上の作品を、512ページの大ボリュームで紹介する美術書だ。   名作を、細部から読み解く。 この本の面白さは、単なる美術史の図鑑ではないところにある。 作品を大きな図版で見せながら、ある部分へぐっとフォーカスする。なぜこの色が使われているのか。この人物は誰なのか。画面に描き込まれた小さなモチーフは何を意味するのか。構図にはどんな仕掛けがあるのか。 一枚の作品を部分から読み解いていくことで、知っているつもりだった名画が、まったく違う顔を見せはじめる。 フェルメールも、ダ・ヴィンチも、ゴッホも、北斎も。作品についての知識を増やすというより、自分の目で発見するためのヒントをもらう。そんな感覚に近い。   本書P132~P133より 本書P467より 西洋美術だけではない、世界の美術史。 本書P275より もうひとつ、この本で注目したいのが、その視野の広さだ。 いわゆる西洋美術の名作だけでなく、日本を含むアジア、アフリカ、中南米の作品や、これまで美術史の中心では十分に語られてこなかった女性芸術家たちも数多く登場する。 先史時代から現代までを辿る章立ても、地域をひとつの中心から眺めるのではなく、同じ時代に世界のあちこちで生まれていた表現を並べて見せてくれる。 たとえば、ルネサンスの隣にはアステカ文明やベニン王国、明代の絵画や雪舟・狩野派がある。 美術史を一本の線として覚えるのではなく、世界各地で同時進行していた文化の地図として眺めてみる。そんな読み方ができるのもいい。 例えば、風景画だけを時代を超えて見てみる。 本書P322~P323より   さらに面白いのが、時代や地域とは別に設けられたテーマ展示。 自画像、風景画、静物画、神話画、動物画、戦争画など、共通するテーマを持つ作品を時代横断で並べている。 年代順に美術史を追うのとは違い、同じモチーフが場所や時代によってどう変化したのかを比較できる。自宅で小さなキュレーション展を開くような楽しさだ。   「名作が名作である理由」 本書P492~P493より 巻末には300人以上の芸術家プロフィールも収録。 気になる作家を調べたり、展覧会へ出かける前に予習したり、見てきた作品について帰宅後にもう一度ページを開いたり。辞書のように使うこともできれば、休日にコーヒーを飲みながら、気の向くままページをめくる画集にもなる。 先日逝去された評論家の山田五郎さんは本書について、美術史だけでなく、なぜ名作が「名作」とされるのかを学べる一冊として推薦コメントを寄せている。 美術に詳しくなるため、というよりも、美術を自分の目でもう少し面白く見るために。 一生ものの鑑識眼は一日では手に入らないが、その入口はこの一冊で開く。...
アフリカ黒檀に刻まれた、名もなき人々の物語。マコンデ美術館「ビナダム展」

アフリカ黒檀に刻まれた、名もなき人々の物語。マコンデ美術館「ビナダム展」

三重・伊勢の小さな美術館で、この秋、静かに熱を帯びた企画展が幕を開ける。テーマは「人間」。それも、英雄でも神でもない、ごくふつうの人々の暮らしだ。 タンザニアのマコンデ族が手がける木彫芸術といえば、精霊「シェタニ」に代表される抽象的でうねるようなフォルムを思い浮かべる人が多いかもしれない。だが今回、マコンデ美術館が光を当てるのは、その対極にあるもうひとつの系譜「ビナダム」だ。       スワヒリ語で「人間」を意味するこの言葉が指し示すのは、畑を耕す人、重い荷を背負って歩く人、顔を寄せ合って言葉を交わす人々。神話的な物語ではなく、東アフリカの大地に根ざした、ごく日常的な営みのひとこまである。 重厚なアフリカ黒檀という素材から力強く、そして大胆に彫り出されたそれらの人物像には、無骨さの奥に確かな体温が宿る。彫刻家たちが人間の暮らしそのものへ向けた、どこか慈しみを帯びたまなざしが、木肌の陰影の中に静かに息づいている。       シェタニの作品群がマコンデ彫刻の「幻想」の側面だとすれば、ビナダムは「現実」の側面。同じ木から生まれた、まったく異なる二つの世界観を知ることで、マコンデ彫刻という表現の奥行きがより立体的に見えてくるはずだ。 遠く離れたアフリカの大地に生きた人々の逞しさは、時代や国境を越えて、見る者の胸をふと打つ。技術と想像力によって命を吹き込まれた木の彫像たちに、会いに行きたい。       _______________ INFORMATION マコンデ彫刻 ビナダム展 ―アフリカに生きる人々の姿― 日程:2026年11月21日(土)〜2027年2月14日(日)休館日:火曜日、12月31日(木)〜1月2日(土)会場:マコンデ美術館住所:三重県伊勢市二見町松下1799-4公式サイト:https://museum.makonde.jp/exhibition/   About the Museum マコンデ美術館 —見て、触れて、感じる彫刻の美術館。 前館長・水野恒男氏が長年にわたり蒐集した2,000点を超えるマコンデ彫刻コレクションのうち、約400点を常設展示。ティンガティンガ絵画やアフリカの民族資料も合わせて紹介しており、アフリカの大地が育んだ生命力あふれる造形と出会える場所だ。 _______________
この秋、恋はナポリの港からやってくる。ロッシーニの洒脱な喜劇『イタリアのトルコ人』

この秋、恋はナポリの港からやってくる。ロッシーニの洒脱な喜劇『イタリアのトルコ人』

新国立劇場の新シーズンは、ロラン・ペリー演出『イタリアのトルコ人』から。 恋をしたい妻と、異国からやってきたプレイボーイ。振り回される夫に、忘れられない元恋人。まるで少し昔の恋愛映画のような人間模様を、ロッシーニは軽やかな音楽とユーモアで描いた。 新国立劇場の2026/2027シーズンを開くのは、ロッシーニのオペラ・ブッファ『イタリアのトルコ人』。『セビリアの理髪師』ほど広く知られてはいないけれど、恋の駆け引きと洒脱なアンサンブルに満ちた、知る人ぞ知る喜劇だ。  今回、とりわけ注目したいのがロラン・ペリーの演出。 19世紀のオペラが、20世紀のポップカルチャーへ  ©Javier del Real | Teatro Real 遊び心とスパイスの効いたセンスで、上演のたびに話題をさらってきた彼が今回選んだモチーフは、イタリア発祥の"フォトノベル"。1950年〜1970年にかけて人気を博した、写真と吹き出しで綴られるメロドラマ風の恋愛小説だ。 舞台では、結婚生活に退屈しロマンス小説に夢中になるヒロイン、フィオリッラの空想と現実が入り混じる。登場人物たちは二次元の物語へ入り込み、また現実へと戻ってくる。 19世紀に書かれたオペラが、20世紀のポップカルチャーを経由して、現代の舞台へ。そんな少し奇妙な時間旅行こそ、このプロダクションのおもしろさかもしれない。 演出・衣裳を手がけるロラン・ペリー、美術のシャンタル・トマによって、作品世界がどのような色彩とフォルムで立ち上がるのかにも注目したい。 恋のゲームは、ナポリから。 ©Javier del Real | Teatro Real 物語の舞台はナポリ。 物語の主人公フィオリッラは、夫ジェローニオとの単調な毎日にうんざりしている女性。そこへナポリの港に降り立つのが、プレイボーイのトルコ王子セリム。二人の視線が絡んだ瞬間から、堅物の夫ジェローニオ、セリムに未練を残す元恋人ザイダ、さらに彼女を慕うナルチーゾまで加わり、恋模様は見事なほどにもつれていく。 そして、その騒動を少し離れたところから眺めているのが、詩人プロスドーチモ。彼はこの騒動を「上出来な喜劇のネタ」とほくそ笑みながら、陰でそっと糸を引いていく。 恋愛喜劇でありながら、物語をつくることそのものを遊んでしまう。そんな知的ないたずらも、ロッシーニならではの魅力だ。 旬の歌い手たちが揃う、この上ない顔合わせ ヒロイン、フィオリッラを歌うのは、24/25シーズン《夢遊病の女》に彗星のごとく登場し、一夜にして評判をさらったソプラノ、クラウディア・ムスキオ。相手役のセリムには、パリ・オペラ座やロッシーニの聖地ペーザロで活躍する若手、アレハンドロ・バリニャス・ビエイテス。そして夫ジェローニオ役には、ブッフォ(喜劇的な役どころ)の世界的名手パオロ・ボルドーニャが名を連ねる。 指揮台に立つのは、イタリアの俊英アレッサンドロ・ボナート。「Forbes Italia」誌が選ぶ2025年「世界を変える30歳未満」にも名を連ね、今夏のロッシーニ・オペラ・フェスティバルでもみずみずしい音楽性で喝采を浴びたばかりの逸材だ。 軽快なリズム、華やかなアンサンブル、登場人物たちのすれ違いを彩るロッシーニの音楽を、どのように舞台上で躍動させるのかにも期待が高まる。 ©Javier del Real |...
「ディーヴァ」、世界を巡り、東京へ。歌声が紡いだ200年の物語

「ディーヴァ」、世界を巡り、東京へ。歌声が紡いだ200年の物語

ひとつの歌声が、人々の心を動かし、社会の風景を変えることがある。 19世紀のオペラ歌手から、ハリウッド黄金期のスター、現代のポップアイコンまで。「ディーヴァ」と呼ばれてきた表現者たちは、類まれな才能と存在感によって観客を魅了すると同時に、時代が定めた女性像や、性、人種をめぐる境界にも挑み続けてきた。 そんなディーヴァの歴史を、19世紀から現代まで約200年にわたってたどる展覧会「DIVA」が、東京にやってくる。英国が誇るヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)が手がけた本展は、アジアで唯一、そして世界巡回の掉尾を飾る舞台に東京を選んだ。会場は、国立新美術館。会期は2027年3月24日から7月19日まで。 マリア・カラスの気高い佇まい、マリリン・モンローの儚さ、レディー・ガガの反逆、ビョークの静謐なる詩情。時代も国境も超え、その声と存在そのもので世界を魅了してきた約100名のディーヴァたちの軌跡を、約280点の貴重な衣装と資料でたどる、かつてない規模の回顧展だ。     本展の大きな見どころは、約280点におよぶ衣装や資料。 なかでも注目したいのが、マリア・カラス、マリリン・モンロー、アデル、レディー・ガガ、エルトン・ジョン、リアーナ、ビョークらが身につけた伝説のステージ衣装、約60点。スターが舞台で一度だけまとったドレス。その人のイメージを決定づけた、あまりにも有名なスタイル。V&Aの至宝に、個人が秘蔵してきた逸品を加え、写真、映像、ポスター、LPと共に、彼女たちの神話を紡ぎ直す。日本展限定の展示も見逃せない。 華やかな衣装や音楽の背後にあるのは、社会の大きな変化だ。男性中心の価値観が支配していた時代に、女性やクィアの表現者たちは、どのようにして自らの声を獲得していったのか。本展では、時代ごとに姿を変えてきたディーヴァという存在を、フェミニズムやジェンダーの視点から捉え直す。ディーヴァとは、単なる歌姫を意味する言葉ではない。それは、自分自身の存在と表現を武器に、社会の常識を書き換えてきた人々の物語でもある。 サラ・ベルナール、「ジャンヌ・ダルク」のポスター | © Victoria and Albert Museum, London   展示は大きく2つの章で構成される。 第1幕|ディーヴァの誕生 アデリーナ・パッティ、サラ・ベルナール、イサドラ・ダンカン、マレーネ・ディートリッヒ、ジュディ・ガーランド、マリア・カラス、マリリン・モンロー、エリザベス・テイラー...。 オペラの黄金時代からハリウッドの黄金期、そしてその黄昏へ。圧倒的な歌声や美貌、個性、そしてスター性を武器に、女性たちが「ディーヴァ」という神話を築いていった時代をたどる。 第2幕|ディーヴァの再生・復活 ニーナ・シモン、アレサ・フランクリン、ドリー・パートン、グレイス・ジョーンズ、マドンナ、ホイットニー・ヒューストン、ビョーク、ビヨンセ、レディー・ガガ、リアーナ、アデル、ビリー・アイリッシュ...。 第2波フェミニズム以降、ディーヴァの意味は大きく変わっていく。社会から与えられた役割を演じるのではなく、自らの声と身体、ファッション、音楽を通して「自分は何者なのか」を表現する。自由を求め、既成概念を打ち破り、ときに社会そのものに問いを投げかけてきた表現者たち。 その系譜は、現代のポップ・カルチャーへと確かにつながっている。 『椿姫』でヴィオレッタ役を演じるマリア・カラス(1958 年) Houston Rogers © Victoria and Albert Museum, London...
「香雅堂」山田悠介さん×「NOSE SHOP」中森友喜さん対談|足し算の香水、引き算の香道 ⸺ 香りの東西、初めての対話

「香雅堂」山田悠介さん×「NOSE SHOP」中森友喜さん対談|足し算の香水、引き算の香道 ⸺ 香りの東西、初めての対話

伝統的な香道の世界で香木を扱う「香雅堂」の山田悠介さんと、世界のニッチフレグランスを紹介するセレクトショップ「NOSE SHOP」の中森友喜さん。同じ「香り」を展開しながら、これまで交わることのなかった二人が、香木を聞き、香水をテイスティングしながら語り合った。温度、言葉、希少性、そして煙⸺。二つの香りの世界の違いと、意外なほど深い共通点が見えてきた。 香道×ニッチフレグランス、直接出会わなかった二つの「香り」   ―香道もニッチフレグランスも、知る人ぞ知る世界ですよね。お互いの領域にどんなイメージを持っていますか? 山田さん:「ニッチフレグランス」という言葉は正直よくわかっていなかったのですが、「NOSE SHOP」のことは開業当時から存じ上げていました。ちょうど香道以外の香りの世界をもっと幅広く知りたいと思っていたので、今日お話しできてとても嬉しいです。 中森さん:海外に行くと、「日本にも香りの文脈というか、香りの歴史があるよね」と香道について聞かれることがよくありました。ただ、私自身は体験したことがなく、そのたびに「そうなんです」というしかなく…。いつか香道を体験したいと思っていました。タイミングが合わずにいたので、今日はすごく楽しみです。   香りを聞く⸺白檀・沈香・伽羅の三炷   ―さっそく香木を聞く体験をさせてくださるということで、山田さんよろしくお願いします。 山田さん:今日は、白檀・沈香・伽羅の3種を聞香していただきます。実は先日、「NOSE SHOP」に伺いまして、ニッチフレグランスを体験してみました。そこで、香水にも香木由来の香りが結構使われているのだと驚きまして。特に白檀を使った香水は多いですね。 中森さん:フレグランスの世界では白檀を「サンダルウッド」と呼び、非常によく使われています。「クリーミー」と表現されることが多く、ベースノートの定番です。「NOSE SHOP」で扱う1800種類ほどの香りのうち、半数近くに入っているのではないでしょうか。 山田さん:最初はインド産の白檀の香りを聞いてみましょう。約110度の熱で間接的にゆっくりと温めていきます。右手で香炉を持ち、左手に乗せ、右手をかぶせて「洞窟」のように香りを溜め、ゆっくり3回、深呼吸するように聞きます。500年ほど前に今の形になった香道は、香木を人間にとって一番良い香りとして体験する方法だといわれています。 中森さん:……本当に静かな香りですね。サンダルウッド特有のまろやかさが確かにある。香水のサンダルウッドのクリーミーさには、どこか冷たさがあるのですが、香木は温かくて包容力がある印象です。香道では、香りを表現する言葉の決まりはあるんですか? 山田さん:一つは「六国(りっこく)」という概念で、大まかにいえば産地による分類。伽羅、羅国、真那賀、真南蛮、佐曽羅、寸門陀羅の六つです。そしてもう一つが「五味(ごみ)」。⽢(かん)・酸(さん)・⾟(しん)・鹹(かん=塩っぱい)・苦(く)、の五つの味で細かく表現します。 中森さん:料理の五味とは少し違いがあるのですね。この器の温度も一つの情報として伝わってくるのがいいですね。大切なものを手の中に包んでいる感覚があります。香水には時間による変化がありますが、香木の香りも変化するものなのですか? 山田さん:変化しますよ。香木の質と火加減が良ければ40分くらい楽しめます。どの香木もだんだん甘く、強く濁っていきます。ただ、その木の"本気"が感じられるのは最初の1~2分だけです。 2つ目は沈香です。タイ産の真那賀のものです。加熱すると樹脂部分が断面からぷくぷくと滲み出て、キラキラと光るので、そこも注目して聞いてみてください。 中森さん:すごくエレガントな香りですね。白檀とはまた全然違う。 山田さん:エレガントという表現、面白いですね。この香りを五味で表現すると、甘い、酸っぱい、少し塩っぱいとなります。タイで採れる沈香は、少し塩っぱい感じが特徴なのですが、これは甘さと軽やかな酸味がいい感じに出ていますね。 中森さん:パチョリのような美しい香りの雰囲気もあります。あとは土っぽさやアーシーな要素もある気がします。沈香は「ウード」と呼ばれ、香水にも使われますが、その香りとはだいぶ違う印象です。 山田さん:3つ目は香道における絶対的エースである伽羅を聞いていただきましょう。香水には、伽羅は使われないですよね。だからこそ体験していただけたら面白いのではないかと思いましてご用意しました。 中森さん:素人ながらも伽羅は香道のトップオブトップというイメージがあります。 山田さん:沈香と伽羅は木の種類が同じだというのが、学術的な定説になっています。おそらく50年から100年経たないと沈香は伽羅に変化しないだろう、ということが学術的な論説になっていますが、「50年から100年」と幅がありすぎですよね(笑)。そのように謎が多い香木とされています。ぜひ聞いてみてください。 中森さん:すごい。ちょっと目覚めました。ひと聞きめの衝撃がありますね。トップがクリアで、美しい。 山田さん:最初のクリアな酸味は、1人目、2人目にしか感じられない香りです。伽羅の中には緑、紫、黒といったタイプがありまして、これは「伽羅」を象徴する王道の緑タイプの香りです。どの香木も甘・苦・辛を持っていますが、伽羅にしかない苦さと、少しの辛さがあります。 中森さん:残香もすごく美しいですね。あえて表現すると、炷き始めの伽羅にはフレグランスでいうお茶っぽい軽やかさも少しあった。それがもう消えている、その変化も素晴らしい。 山田さん:香道のお稽古では2時間で15回ほど様々な香木を聞くのですが、終わって屋外に出て、風が吹いたとき、ふっと感じられるのは伽羅の香りということが多いです。 中森さん:雅ですね。情報の幅とボリュームが圧倒的でした。ちなみに香道の時間は、どのようにしてクロージングするのですか? 山田さん:組香(くみこう)という香りを聞き分ける遊びをするなら、正解発表と採点、トップ賞への記録紙の授与という明確なクロージングがあります。 でも今日のような会は、会話ができればそれがゴール。お互いの興味が交わるものを通して仲良くなる時間です。もちろんマニアの方が集まれば「緑の伽羅を三種いただいたけどどうだった?」という微差を楽しむ会もあり得ます。どれも正解です。...
日本橋兜町で、漢方の知恵薫る一杯を。クラフトハーブティー&チャイ専門店「TYNK Kabutocho」

日本橋兜町で、漢方の知恵薫る一杯を。クラフトハーブティー&チャイ専門店「TYNK Kabutocho」

金融街として知られる日本橋兜町・茅場町エリア。近年は、歴史ある建築物や街並みのあいだに、新しい店やカルチャーが少しずつ増えている。 そんな街で見つけたのが、「TYNK Kabutocho(ティンク カブトチョウ)」だ。 カフェインレスのクラフトハーブティーとチャイをつくってきた「TYNK」の、初めての実店舗が、この夏、兜町にオープンした。 「TYNK」は、日本古来の漢方文化を受け継ぐ漢方薬剤師・吉田重子氏が監修する、カフェインレスのクラフトハーブティーブランド。 2022年のブランド誕生以来、TRUNK(HOTEL)やおちあいろう、Soil Nihonbashiといった宿泊施設で提供されてきたほか、Barneys New Yorkでの取り扱いや、豊島美術館、The Kahala Hotel & Resort Yokohamaとのオリジナルブレンド開発など、さまざまなパートナーシップを通じて着実にファンを広げてきた。 宮崎県延岡市には自社農園を構え、無農薬でハーブを栽培するなど、原料づくりの段階から丁寧にものづくりに向き合っているのもTYNKの魅力のひとつ。 「ノンカフェインは味気ない」「漢方は飲みにくい」。そんな先入観を覆すような、おいしさを追求している。   厳選された植物由来の素材を用い、漢方の知見と自然の恵みを一杯に凝縮している ロゴやパッケージには、世界的デザイン集団Tomatoの創業者サイモン・テイラー氏が携わっており、視覚的な美しさもTYNKらしさを形づくっている 日本の作家ものや海外から買い付けてきたヴィンテージなど趣味のよい器が並ぶ 創業者の辻田泰典氏は、長くファッション業界でブランド開発に携わった人物。自身がカフェインに敏感な体質だった経験から「TYNK」を立ち上げた。   店内のメニューには、ハーブティーやチャイに加えて、グルテンフリーのオリジナルスイーツやクラフトアイスクリームも並ぶ。ハーブやスパイスの香りを、飲みものだけでなく、甘いものでも楽しめるのがうれしい。 左:1113 リラックスティー 700円、右:ヒュウガトウキ香る米粉のレモンケーキ 780円  左:いちじくとチャイのオーツキャロットケーキ 830円、クラフトハーブティー 700円中:和漢チャイオーツミルクラテ 800円右:和漢チャイトニック 800円 TYNKが掲げるのは「Pause(余白)」という考え方。茶葉を蒸らす数分間や、一杯のお茶をゆっくり味わう時間を、日常のなかにつくるというものだ。 金融街としての歴史を残しながら、新しい文化や店が少しずつ根づきはじめている日本橋兜町。その街に、漢方の知恵をベースにしたハーブティーとチャイという、新しい時間の過ごし方が加わった。 兜町で、漢方とチャイ。歴史ある建築や景観を継承しながら進化するこの街を訪れる理由が、またひとつ増えた。...
200年の伝統と東京の感性が交差する場所。『香雅堂』二代目の店主・山田悠介さんが開く香文化

200年の伝統と東京の感性が交差する場所。『香雅堂』二代目の店主・山田悠介さんが開く香文化

江戸寛政年間に創業し、200年以上の歴史を持つ京都の老舗『山田松香木店』。その次男である初代が東京に店を構えてから43年、麻布十番の地で今のライフスタイルに寄り添う香りの文化を届けているのが『香雅堂』だ。 長い歴史の中で育まれてきた日本の香文化を現代に伝えているのが、二代目の店主・山田悠介さん。香りを潜在的に必要としている人に届けることを目指す山田さんに、文化発信の拠点となる麻布の店舗で話を聞いた。 「溢れるように」導かれた二代目の道 もともと大学卒業後はIT企業で働いていたという山田さん。『香雅堂』を手伝い始めたのは、2011年、東日本大震災があった年のことだった。 「両親から『店を継いでほしい』と言われたことは一度もなかったんですよね。ただ、学生時代にここで1年ほどアルバイトをしていた時期があり、また幼い頃から父が香木を割って焚く香りがいつも側にあり、働く姿も近くで見ていたので、言語化できないような小さな積み重ねが心の中に溜まっていたのかもしれません。あるときコップから水が溢れるように自然と店で働こうと思ったんです」と当時を振り返る。 『香雅堂』のルーツは、香道の本場である京都にある。200年続く『山田松香木店』が本家にあたる。 「伝統を守っていく京都に対して、僕らはその本質を踏まえ、リスペクトを持ちながらもお香の世界を開いていく存在でありたいと考えています。そういった役割分担があることで、文化的な広がりが生まれるんじゃないかと思うんです」とその矜持を語ってくれた。   「聞く」ことで完成するゲーム、そして絶滅危惧種のタイムカプセル   そもそも香道とは、室町時代に成立した日本の伝統的な芸道。香木を間接的に加熱し、立ち上る香りを「嗅ぐ」のではなく「聞く」と表現して、自らの精神性や情景を鑑賞する。   体験香席の様子。 「茶道や華道と同じように流派があり、お作法が決められている一方で、実は非常に豊かな遊びの要素を持っています。みんなで集まっていくつかの香りを聞き分け、『何番目の香りと何番目の香りが一緒だったか』を当てるゲーム性がある。仕組みさえ分かれば誰でも直感的に楽しめる奥深さがある芸道です」     この香道において主役となる「香木」が、今、とりわけ希少なものとなっているという。 「香木はジンチョウゲ科の樹木が傷ついた際、自らを防御するために分泌した樹脂の塊です。それが50年から100年という時間をかけて変化することで、あの独特な芳香を放つようになります。その性質上、ハイエンドでハイクオリティな天然香木に関しては自然にできたものを使うしかありません。需要があるからといって、おいそれと作ることができるものではないんです。香木店である僕らでさえ、すでに40年前から新しい仕入れのルートが立っていない状況です。そのため現在は0.2gや0.4gといったごく少量の単位で販売しており、月にどれくらいの量を売るかも制限していかないと、一瞬で全部売れてしまう、まさに絶滅危惧種のような存在なんです」     香道にはお道具も欠かせない。一階奥のスペースには美しい香道具が、まるで美術館のように展示されている。   歴史を紐解けば、飛鳥時代に日本へ渡来して以来、宗教的な要素や精神性とも深く結びついてきた香木。平安時代には『源氏物語』に描かれるように貴族たちが衣服に香りを焚き染め、戦国時代には武将たちが自らを鼓舞し、非日常へのスイッチを入れるために香りを求めた。目に見えない煙と香りは、いつの時代も人々に特別な時間を提示してきたのだ。 この極めて希少な香木を見極めるため、山田さん自身も日々香木の鑑定も行っている。 「香木には白檀、沈香、伽羅といった種類があり、そのなかで香道では香りを産地や特徴から6つに分類するという区分けもあります。お寺やご自宅にある香木をお持ちいただき、そのどれに当たるかを見極めていくというお仕事です。実際に焚いてみて、香りを聞いて、『緑系の伽羅だな』といったように色で表現したり、香りの酸味、甘み、苦味の強さなど、時間を追った変化も見ていきます」 鑑定を通して客観的に香木と向き合ってきた山田さん。最近は、いろいろなアーティストとの交流などを通して、少し香木との向き合い方に変化があったのだそう。 「香木はナチュラルにできるものなので一つひとつ香りのニュアンスが違います。『この香木はこういう香り』とある程度目星をつけて鑑定しているのですが、ときどき『こんな香りをしていたの?』とハッとさせられるようなこともあるんですよね。あるとき、そういう香木の持つ特性について話していて、『香木をもっと特別なものだと思っていいんじゃないですか』と言われたことがありまして。たしかに今まで、香木をフェアに見ようとしすぎて、香木の持つ特別な魅力に向き合っていなかったのかもしれないと。最近はそういう主観も大切にしながら香木を見つめていきたいなと思うようになってきています」     入口を広げ、暮らしと文化をつなぐ「交差点」へ   香木が希少となり香道がさらに遠い存在になりつつある今、山田さんはそのハードルをあえて下げ、現代の暮らしに取り入れる提案を続けている。1階エントリーコーナーにはスティック香や匂い袋など生活になじむアイテムを取り揃え、奥のコーナーでは香木や本格的な香道具を実際に見ていただけるという二部構成。2階に設えられた和室のスペースでは、香道の入り口になるようなカジュアルなワークショップも開催している。 特にコロナ禍で家にいる時間が増えたことを契機に、家で香りを楽しむ文化は確実に拡大しているという。 「コロナでおうち時間が増えたことで、お香を見直していただいた印象があります。フレグランス系のトレンドを一通りやり尽くした感があったところで、スティック香という形状が違うだけで、同じ香りのはずなのに、そこから受け取れる解像度が変わってくるというところも楽しんでいただいているようです。火をつけて煙が立ち上るというビジュアルも含めて、気持ちを切り替えるスイッチとして楽しむ人が増えているんでしょうね」  ...
Vol.3 ミラノ デザインウィーク 2026 レポートノート -  12枚のタペストリーが紡ぐ、グッチ 105年の軌跡

Vol.3 ミラノ デザインウィーク 2026 レポートノート - 12枚のタペストリーが紡ぐ、グッチ 105年の軌跡

【イタリアでグッと来た、暮らしをハッピーに彩るコトやモノ】 Vol.3 イタリアに息づく、日常の何気ない瞬間を楽しむというライフスタイルから、特別なことではないけれど日々を少しハッピーに彩るコトやモノをご紹介している連載のVol.3では、ミラノで開催された「ミラノ デザインウィーク」のレポートです。会期はすでに終了していますが、イタリアで心を動かされた出来事として、アーカイブとして綴ります。   「最後の晩餐」のあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 ミラノがデザインとアートで包まれる 4月のイタリアは、太陽の光がいっそう眩しく、街全体がワントーン明るく感じられる季節。今年はちょうど良いタイミングが重なり、4月21日から始まったミラノ デザインウィークを訪れることができました。 「ミラノ デザインウィーク」は、毎年4月にミラノで開かれる世界最大級のデザインの祭典です。ミラノ郊外の見本市会場で行われる「サローネ・デル・モービレ(ミラノサローネ)」と、市内各所で展開される「フォーリサローネ」の2つで構成され、期間中は街全体がデザイン一色に染まります。 展示の対象は家具にとどまらず、ファッション、自動車、ライフスタイルなど多岐にわたり、世界180カ国以上から建築家やインテリアデザイナー、バイヤー、観光客が集結。15世紀の修道院や貴族の邸宅といった歴史的建築が展示空間として活用されるのもイタリアならではで、街を歩くだけでまるで美術館の中にいるような感覚に包まれます。 今年は期間中、世界中から約30万人がミラノに集まったそうです。その中から、訪れたエキシビションの内容をお伝えします。   ミラノの"芸術の中心地"ブレラ   Audi × Zaha Hadid Architects 105年の軌跡を織り上げる「Gucci Memorial」 グッチのアーティスティック・ディレクター、デムナによるキュレーションで構成された今回のエキシビション「Gucci Memorial-グッチメモリアル」は、105年にわたるブランドの歴史を象徴的に再構築し、多面的な進化とクリエイティブの軌跡を提示するもの。会場となったのは、ミラノ中心部に位置する歴史的建造物、サン・シンプリチャーノ大回廊(Piazza Paolo VI, 6)。長い列を待ち、入場できたその空間にはグッチの象徴であるフローラプリントがリアルに再現され、花々が咲き誇るボタニカルガーデンのような世界が広がっていました。その美しさは圧倒的で、ブランドの世界観を立体的に体験できる場となっていました。 また、エントランスにはオリジナルの自動販売機が設置され、入場コードをかざすとオリジナルドリンクが出てくる仕掛けもありました。こうした伝統と革新が同居する演出の幕開けから、時代を牽引してきたグッチのアイデンティティーが感じられました。   ブランドの105年の軌跡を紡ぐインスタレーションは、フィレンツェに古くから伝わるテキスタイル工芸をルーツとした12枚のタペストリーで構成されています。物語は、創業者グッチオ・グッチがロンドンのザ・サヴォイで過ごしていた時期を描いた、トラベルケースに手を添えている印象的なタペストリー「The Gift」から始まります。   歴代デザイナーの歩みを象徴的なシーンとして織り込んだタペストリーの数々には、ブランドへの敬意が感じられ、同時にデムナの視点による再解釈が静かに息づいています。伝統と革新が交差するその表現は、グッチというブランドの奥行きを改めて認識させるものでした。  ...